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映画 天国と地獄

2018年12月4日
先日、かれこれ30年ぶりぐらいに黒澤明「天国と地獄」を見返した。
あの頃、黒澤明に凝って、10数本連続で見たものだった。
羅生門、用心棒、七人の侍隠し砦の三悪人、悪い奴ほどよく眠る、酔いどれ天使、赤ひげ、野良犬、生きる、蜘蛛の巣城、デルスウザーラ、などなど。
当時は私自身がまだ武道をやっていたこともあって武張った内容のものに興味が行ったようで、連続で見たものの中では、椿三十郎がピカ一だと思った。
最後の決闘シーン。世界の映画の決闘シーンを変えてしまったと言われるあの場面には痺れたものだった。裏話として語られる三船がやったという挿話もその感覚に拍車をかけた。決闘シーンでは、本身、つまり、真剣が使われたという。刀の重さのリアリティーを出すためだった。そこまでやるか!
そんなことも思い出しながらだったが、しかし、今回、改めて「天国と地獄」を見返して、椿よりも上かもしれないと思った。
そこに流れるテーマが益々現代社会により大きな意味を持っていること、その変わらぬテーマ性に愕然とした。テーマの最も中心にあるのは貧富の差である。制作から50年を経て、時代は流れたが、その間に貧富の差は一旦縮まったかに見えたが、ますます深刻度を増している。
持つ者と持たざる者。映画は、この資本主義が本質的に抱えている問題を剔抉している。
しかし、三船演じる主人公は靴職人から叩き上げた苦労人で、漸くその富を得た人間である。ここまできて、持つ者に成りきるためには、心を捨てなければならない。つまり、この事件でそれを突きつけられたものの、実は、資本主義社会では、持つ者に成りきるためにはどこかでその選択を迫られる。その大きな選択、あるいは小さな選択の繰り返しが資本家と労働者を分ける道なのだ。心を捨て続けることが持つ者へと至る道なのだ。
一方で、その持つ者に成りきれていない未だ持たざる者である三船を、同じ持たざる者である山崎努が撃ち落とす。持たざる者同士が争う。
そして、持つ者である会社の役員たちはその争いの外にいる。会社は持つ者である資本家のものである。争いなどとは無関係だ。
そんな構図は今の社会でこそ強まっている。誰もが心を捨てて資本家になろうとし、心を捨てたもの同士の争いを行い、持たざる者は持たざる者同士のジェラシーの争いを繰り広げる。資本家が植え付けたこの構図を壊すには、まったく異なる視点が必要だと思う。トランプが図らずも突きつけた資本主義の矛盾と行き詰まりを我々は直視して出口を見つけなければならない。心ある金の使い方とはどんな方法なのか。それに皆が気づかなければならない。
山崎努が薬を買い付けに街に行く終わりの方の場面で、街頭でたまたま見つけた三船にタバコの火を借りる。そのとき、もはや会社を追い出されていた三船はショーウインドーに張り付くようにして靴の良し悪しを見定めている。本当に良い靴を作りたい。その一心が伝わってくる。この、本当に良いもの、これが新しい社会への重要なキーワードのような気がしてならない。
「天国と地獄」は、そんなことを想起させる内容だった。
ちなみに、このとき、山崎努を尾行していた刑事の仲代は、やつは正真正銘のゲス野郎だ!と言い放つが、火を借りて三船の後ろ姿を見送る山崎の表情は少なくとも満足そうではなかった。山崎はこのとき三船の本質を垣間見て自分を恥じた。だからこそ最後に三船との面会を望んだ。というのは私の希望的な見方にすぎないだろうか。